明るい家族砲計画っ! 特別短編その2
完全書き下ろしです。これまで未公開。
シリーズ完結に際してまして、HP上にて収録することにしました。
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「はじめてのおつかい」
新城家のリビングは、今日もおおむね平和だった。
エプロンを着けた少女がくるくると立ち働いて、夕飯の準備にいそしんでいる。
まだ夕方にはほど遠い時間だ。しかしこの週末のメニューは、目一杯張りこんで本格ローストビーフ。焼き上げるのに何時間もかかるような大作である。
オーブンの中では家族六人分の巨大な肉塊がジジジと音を立てて焼けつつあった。
「ママー、お腹すいたー」
別の少女の声があがる。リビングの絨毯に座りこんだ少女――ヒカリが、元気なく脚を投げ出している。
「まだだーめ。焼けてないし。パパ帰ってきてないし」
高校生の彼女の名は美奈という。ママと呼ばれても顔色ひとつ変えない。ヒカリが未来からやってきた自分の本当の娘であるということは、彼女は知らないはずであるが、いつもそう呼ばれることで慣れてしまっているのだと。――そう推論する。
彼女は壁の時計に目を上げていた。“パパ”の帰る時間を計っているのだ。
一学期末の期末考査が終わって、結果が出て、赤点を取ってしまったのは、“家族”のうちでただ一人だけだった。ママは全科目が九〇点以上。ヒカリは全科目全てで驚異の百点満点。パパだけが三科目ほどの赤点で、明るく楽しい夏休みのため、休日に学校に出かけて行き、いま補習を受けているところであった。
私は――。
“パパ”と呼ばれるその人物の、現在地点と進行速度から、予想される帰還時刻をとっくに算出し終わっていた。人工衛星の回線に侵入すれば簡単なことだ。
この私の性能をもってすれば造作もない。
「ほんと遅いなぁ……。拓真」
美奈が言う。
充分に斟酌したうえで、私は、発言しないという行動を採択していた。壁の時計を見上げる彼女が、待つことを楽しんでいると推定したからだ。そのくらいの“気遣い”を行うことは――。この私の性能をもってすれば、もちろん造作もない。
「ねえ。ヨミちゃん」
「はい」
急に名前を呼ばれて、私の知性は五ミリセカンドほどもハングアップしていた。生物的に言えば驚いていた。だが私がみせてしまった五ミリセカンドの空白は、決して気づかれることはないだろう。ヒトと機械知性とのあいだには、それほどの性能差が存在している。
彼女が次に何を言ってくるか、ヒトの脳の思考速度に合わせて、五〇〇〇ミリセカンドもの間――主観的には永遠に近い時間、私は待っていた。
「おつかい……、行ってきてくれない?」
「おつかいですか?」
「うん。拓真に頼んであったんだけどね。遅くなりそうだし……。先に準備しておけば、帰ってきたらすぐにご飯にできるし。ヒカリちゃん、待ちかねちゃってるし……」
と、彼女は微笑む目を床に落とす。
絨毯の毛の上で、ヒカリは、ぐんにゃりと長く伸びていた。
生物である彼女は、食物を定期的に摂取しないと活動エネルギーに支障をきたす。つまり生物的にいうところのハラペコだ。その感覚であれば私も知っている。バッテリーの残量が少ないということだ。いろいろな機能がサスペンドモードに落ちてしまうということだ。
結論。ハラペコはよくない。
「わかりました」
「これメモね。拓真にはメール入れとくから。お金【お金:傍点】と一緒にバックに入れといてあげるから。じゃあ行ってきて」
彼女はなにか気になることを言っていたが、私は気にしなかった。あとで検索すれば済むことだ。“インターネット”とは便利なものである。あらゆる知識がそこに在る。
「あ――、それから」
玄関に向かおうとした私を、彼女の声が呼び止めてくる。
「その頭の飾り。おっきいやつ。目立っちゃうから、外しておいたほうがいいよ」
「はい」
彼女の言葉は第三位の優先度を持っていた。私には逆らうことも異議を差し挟むこともできなかった。
あらゆるセンサーと通信機能とが内蔵されたヘッドパーツを、正副両方とも家に置いて――。つまりセンサー機能の九八パーセントを喪失した状態で――。
私は外出した。
表に出ると――。
世界はまったく違って見えていた。
たった二つしかない低解像度の視覚器官で物体を認識しなければならない。歩行にさえ困難をきたした。電柱と頭部中央が何度か激突した。だが問題ない。この私のボディ強度をもってすれば電柱との衝突はなんの影響ももたらさない。
電磁場レーダーもなく、重力波干渉計も、ニュートリノも視えず、バリオンスキャナも失って、衛星とのリンク機能も、インターネットとの接続さえ断たれて、私は完全なスタンドアローン状態となっていた。かつてない混乱が私を襲う。
私は――。
わたしは――。
わ、わたしはっ――。
わたしは途方に暮れていた。
生物的に言うと、いまの状態はまさに「途方に暮れた状態」という状態であり、おそらくいま私は紛れもなく途方に暮れているのだった。この体験はまさしくわたしのアイデンティティに対する――。
「ワン! ワン! ワン! ワワン! ウウーーッ!」
わっ。わっ。わっ。
犬が吠えて。いまっ。犬がっ。いきなり。ワンワンって。そこからっ。物陰からっ。飛びだしてきてっ。探知圏外っ。意識の外からっ。
わあ。わあっ。わあああっ。
…………。
うわーん。
*
「んふふふふー、いいお天気だねー」
「ああ」
拓真は道を歩いていた。
その腕にぶら下がるように、小学生の少女が、ぴっとりと貼りついて歩いている。小さくとも小生意気な弾力の胸を、ぎゅううと押しつけて幼妻的に誘惑してくる。
拓真は仏頂面になっていた。
いや。嬉しくないかというと、決してそんなこともないのだが。しかしあれだ。人としてどうかと。相手は小学生なんだし。孤独に生きてきた彼女に対して父親的役割を果たすと誓ったのだし。それに自分には心に決めた相手が。好きな相手が――。
「デート日和だねー」
「なっ――」
なんですと。
拓真は言葉を詰まらせた。驚いてうろたえて、仏頂面で無愛想な返事も返せなくなってしまった。
デートだったのかこれは。知らなかった。学校帰りに偶然出会って道を歩くとデートになってしまうのか!
拓真はスーパーの前で直角に曲がった。
少女――理央を腕にぶら下げたまま、店の中に入ってゆく。
今日は寄らなくていいと、さっき美奈からメールは届いていたが、この事態をなんとかしなければならなかった。デートから買い物へと――ステージを変更せねばならない。
一刻も早く。美奈にバレちゃわないうちにっ。
「一緒に買い物だなんて、なんか、若い夫婦みたいで――、照れちゃうよね……?」
店内に入ると、小学生の少女は顔を染めながらそう言った。
うわあああ。
スーパーの店内からも逃げ出そうとした拓真は、ふと、見覚えのある人物を見かけて急停止した。
翠【翠:みどり】の長い髪。どこかのレースクイーンかというような奇抜な服装。トレードマークのツインテールは今日はお休みで、髪を後ろに下ろしてはいるが、それはまぎれもなく――。
「ヨミじゃん?」
ぶうんと一回転振り回されて戻ってきた理央も、拓真とおなじものを見て、そう言った。
店内のコーナーの一つで、彼女は手にしたメモと、棚に陳列された商品とを見比べていた。ひとつひとつ手にとっては、ラベルを確認。また棚に戻している。
「なにしてんだ? ――棚の整理?」
「買い物……、とか?」
拓真は理央と二人で首を傾げた。
とりあえず様子を見守ることに決めた。
*
またひとつ、ラベルを視覚でスキャンする。
「これはナットウ。金の粒。――レタスとは違う」
品物を棚に戻して、その隣の品物を手に取ってみる。
「これはトウフ。特選絹ごし。国産大豆使用。――でもレタスとは違う」
わたしは生物的に言うと途方に暮れていた。
レタスはどこにあるのだろう。
「トーフ……、トーフ……」
そんな声が聞こえてきて、ヨミは顔を向けた。
ヨミの腰あたりまでしかないようなヒトの子供が、棚ばかり見て前を見ずに歩いてくる。
彼女がじいっと見つめていると、そのまま、お腹のあたりに顔をぶつけてきた。
こてん、と後ろ向きに倒れる。
「だいじょうぶですか?」
ヨミは男の子を助け起こした。年齢は四齢か五齢――少なくとも彼女より年上であることは確かだった。アンドロイドであるヨミは、生産工場をロールアウトして、まだ一ヶ月も経っていない。
「おネエちゃん、ごめんなっ」
男の子はそう言った。ヨミの想定したいくつかの可能性をすべて裏切って、少年は泣きもしなければ怒りもしなかった。そして自分の非を認めて謝ってきた。ヨミのなかで少年への評価がすこし上がった。生物的に言うと好感を持った。
ヨミは彼の過ちを正すべきか考えた。「お姉ちゃん」とは年上に使う言葉だ。だがどうでもいいことなので放置する。その誤解は実害をもたらさない可能性が高い。
「トウフを探しているのですか?」
「うん。トーフ。ママがかってきてー、って」
「これがトウフです。私はそのことを知っています」
「あっ。ほんとだ。これ中がトーフだ。こんないれもんに入ってたんだー」
少年は棚を背伸びして見つめている。五歳の背丈では、背伸びしないと手が届かない。
「でもこれ、いくつもあるよ?」
「肯定します。全種類のスキャン完了には一分二〇秒を必要とします」
「なんてかいてあるの? これ?」
少年に手渡されてきた二つをヨミはスキャンする。
「こちらは絹ごし。こちらは木綿」
「トーフじゃないの?」
「トウフである蓋然性は高いです。おそらくどちらもトウフです。木綿と絹ごしという単語はトウフの種類を示している可能性が九八パーセント」
「おネエちゃんってバカだろ」
「どちらを買うべきか指示は受けていますか? メモは貰っていますか?」
「ううん」
少年は首を振る。
ヨミは少年と二人で本気になって悩んだ。地球の全コンピュータを合わせたよりも一桁多い演算量が駆動され、周囲の気温を数度ほど引きあげた。しかし圧倒的にデータが足りない。いくら演算しても答えを導き出せない。
少年が不意に言う。
「どっちもトーフなら、どっちでもいいんじゃん?」
「なんという名案」
少年が引きずってきたカゴの中に、トウフを入れる。
他にも買う物はあるらしい。
ヨミはしばらく少年と行動を共にすることに決めた。彼についていったほうが、ヨミの目的達成の可能性も上がりそうに思えた。
*
「あれ、カレシかなっ?」
「ばっ、馬鹿っ。んなわけ、あるわけねーだろっ」
柱の陰から様子をうかがう拓真は、隣で同じようにしている理央に突っこみを返した。
なんつー不吉なことを言うのだ。それでも母親か。人の親か。ヨミに虫がついたことを喜ぶなど。血も涙もないとはまさにこのことだ。
「ヨミにカレシができると、拓真、なんか困ることでもあるの? ――男親ってそういうもん?」
「ばっ、馬鹿っ。困るわけないだろ」
美奈もヒカリもそうなのだが、理央も話をまったく聞いちゃいない。かと思えばぜんぜん関係ない方面にいきなり話を飛び火させてゆく。拓真の心境など、いまのこのこととは、なんの関係もないだろうに。
「カレシなわけねーだろ。どう見たって歳の差、ありすぎだろっ!」
「ヨミって生後一ヶ月だよ。拓真忘れてるみたいだけど」
「あのな――」
「あ――動いたっ」
なにか言い返してやろうとしたのだが、理央がツインテールを跳ねあげて言ってきたのですべて中止となった。
買い物途中の若い夫婦、じゃなくて――理央と自分との年齢差を考えるなら、仲のいい兄妹といったあたりだろう――をさりげなく演じて、腕を組んでふたりのあとを尾行する。
幼稚園くらいと思われる男の子と、ヨミの二人は、行き先も定まらずにふらふらと店内を歩きまわっすいた。
美奈と一緒に買い物にきたときのように、各コーナーを一筆書きにして最短ラップを刻むのとはえらい違いだ。
二人が迷走しているのは男の子のせいもあった。お菓子のコーナーの前を通ると「オカシだー」と駆けていき、ソーセージが置いてあると「ワンタンマーン」と行く。そのたびにヨミが捕まえて引き戻してくる。お散歩ワンコみたいにリードでも付けておくべきだろう。
「ほらアナタ。こっちこっち」
理央に腕を引かれてコーナーを急旋回する。仲のいい兄妹路線がいきなり台無しにされている。なんの法則性もなくいきなり進路を変える二人に、尾行するほうはもっと大変だ。正直こちらも、端から見てもかなり怪しい二人組になってしまっている。
だが二人には目の前しか見えていないのか――。
こちらに気づくようすはまったくない。
ヨミと男の子の二人は、気の向くまま、思いつくまま、棚の商品を手にとってはラベルを眺め、そして元の場所に戻すという動作を繰り返していた。そしてごくまれに、なんだか偶然っぽくヒットすると、品物を棚に戻さずカゴへと移すこともある。
「あれはやっぱ、おつかいなのか?」
「はじめてのおつかい?」
ヨミと男の子との奇行に無理矢理に意味づけすると、そういうことになる。
そういえば、ヨミが手にしているエコバッグ――。あれは美奈がいつも持っているものと同じであるような気がする。
「待て。いま訊いてみる」
拓真は美奈にメールを送った。「ヨミにおつかい頼んだ?」という文面に「拓真おっそーい」と返事が返ってきた。これは美奈語でいうとYESという意味だ。
「そうだとさ」
「あとなに?」
「レタス。ベビーリーフ。ぎうにう。シイタケ。麻婆豆腐の素。ドレッシングお好みで」
拓真は昼間届いたメールのリストを読みあげた。
「さっきレタスは発見してたよ」
「ベビーリーフは? あれレタスの隣だろ。あとシイタケだって近いだろ」
「まったく素通り。ところで――ぎうにうってなに?」
「美奈語でいうところの牛乳のことだ」
「トラップかよ! ヨミ困るじゃん! きちんと書けよ!」
迷走するヨミたちは、飲料コーナーにさしかかっていた。
ほら。そこだ。牛乳は右手だ。
理央二人で念波を送る。
右を出せ。右だ。おまえの右は世界を取れる右なんだ。
だが心の中での応援もむなしく、ヨミたちは華麗なるスルーで――。
とか思ったら、行き過ぎてから振り返ってきた。
拓真と理央は慌てて後ろを向いた。
「ねえアナタこのチーズ見て見てぇー、かわいー」
「ばかだなオマエのほうがカワイイさ」
――とか。若い夫婦の会話を装うが、そんな擬装はそもそも必要なかったようだ。ヨミは本当に見事なまでに気づかない。わざとやってんじゃないか、と思うくらい、気がつかない。
少年が品物を取ってくる。ヨミは眼鏡を落とした近眼の人みたいに、目を細めた品物に顔を近づける。
「これは牛乳です。ちがいます」
「ちがわないよ。ぎうにうだってばー」
「牛乳と“ぎうにう”は別の品であるはずです。これは先ほどのトウフとは違うケースです。名称が異なっている以上論理的にいえば――」
「ヒカリマン・キーック」
「あ。蹴った。蹴ったよ」
男の子が向こう臑を蹴っている。
「暴力夫だ! ヨミやり返せ!」
エキサイトする母をよそに、ヨミはしぶしぶ牛乳を買い物袋に収めていた。釈然としない顔でいるが、この場合にはそれで正解だ。
しかしガキ。蹴るかふつう。正解だけど。
その後にも――。「お好みドレッシングという品は存在しません」と言ってごねてみたり。「ベビーリーフはベビー用品にある可能性が高いです」とか主張して、粉ミルク近辺を無駄に捜索してみたりと――。
ヨミはその非常識ぶりを盛大に発揮していた。
そこに毎回つっこんでいる幼稚園児が、なんと頼もしく見えたことか。
しかしガキ。お尻にパンチとか。スカートめくりとか。おまえそれはセクハラだぞ。この場合は許すが。だが奪ってゆく君を一発でいいから殴らせろ。父親として。
「ねえ……。あといくつぅ?」
げっそりと疲れた顔になって、理央が訊く。
「あと二つ」
拓真も疲れ果てて短く答える。やきもきしていて精神的に疲れきっていた。
それでもヨミたちが急にこっちを向いたときには、「ねえアナタ見てこの米袋イカしてなーい?」「部屋に飾るといいんじゃないかな」とか、若い夫婦の会話を装うことを忘れない。
ヨミたちはいま鮮魚コーナーにいた。
そしてシイタケを探していた。
なぜキノコが魚売り場にあると思ったのか、拓真たちの知る由もないが、とにかくヨミは魚のパックをひとつひとつ読みあげている。売り場のパックを全調査してゆくつもりらしい。
本気だ。
あの子はそのくらいはやってしまう子だ。根気という点では人を超えた存在だ。砂浜の砂を一粒ずつ数えあげろと命じられたって、やり遂げてしまうに違いない。
男の子のほうはとっくに床に座りこんで、「ま〜だ〜」とか言っている。肝心なとこで使えぬやつだ。このさいDVでも何ででも、手段を選ばず“カンチョー”とかやってでもヨミを引っぱっていくべきなのに。
「しかたがない」
「どうすんの?」
決意した拓真は理央に見晴らせておいてその場を離れた。野菜コーナーに行って、まず「シイタケ」を探す。
六個入り一パック。中国産。一九八円。じつに手頃だ。これでいい。
そのパックを手に鮮魚コーナーに戻ってくると、ヨミの先回りをしていった。
数個ほど先。ヨミの手のいくらか先の位置、アジとタコとの間にこっそりと置いておく。
そして理央のところに戻った。
「どうだ?」
「もうすぐ。あと三個……。二個……」
理央と二人で、固唾を飲んで見守った。
「取った!」
「しっ……」
声を潜めて、物陰から見つめる。
「これはシイタケです」
ヨミがぽつりと言う。その声にはとりたてて感動はない。砂浜の砂粒を数え終わりました、とか言うのと同じ口調で言っている。
「ほんと? それでいいの?」
男の子が立ち上がる。
「“ぎうにう”を除いてすべて収集完了です」
「だからー、ぎうにうが牛乳なんだってばー。ヒャクマンエンかけたっていいよ!」
「ヒャクマンエンとはなんですか?」
ヨミが小首を傾げる。
聞いている拓真は、どっと疲れに襲われた。まさか本当に知らないのか。
「おまえ。ヨミにどんな教育してんだよ?」
思わず理央に苛立ちをぶつけてしまう。
「母親だけに責任なすりつけんな。あんただって父親でしょーが。――違うって?」
ぎろりと、凶悪な目で返される。理央も疲れて凶暴化している。
「任務完了。帰投します」
ヨミと男の子が歩いてゆく。
「いや。まあ。ほら。とにかく無事にぜんぶ揃って……、よかったよな?」
「うん……、ま、まあ……。あたしも、こんどちゃんと教えとく」
理央も手指を揉み合わせて、しおらしい声で言う。
と、その手をほどいて、片方を拓真に向けて差し伸ばしてくる。
「ん」
仲直りの合図だ。
拓真は差し伸ばされた理央の手をしっかり握って、歩きはじめた。
ヨミたちの後ろについて、レジの方面へと向かう――。
いや。
ヨミたちは――。ヨミは、レジに並ぼうとしなかった。
「あれ? あれれっ?」
拓真たちがぎょっとして立ち止まる。ヨミの背中が遠ざかってゆく。ヨミは出口に向かって、迷うことなく、どんどんと歩いていってしまう。
「おい。お金。あれ? ――おい。おいってば」
「ヤベえ――ヨミお金知らねえよ。あたし教えてないよっ」
男の子がレジを振り返りつつ、ヨミの手を何度か引いていた。
やれ。いけ。幼稚園児。がんばれ。止めろっ。なんか言えっ。
男の子はポケットのなかから硬貨を何枚か掴みだして、ヨミに見せている。レジを指差してなにか言っている。だめだよお金払わなきゃ、と言ってくれているに違いない。
よし。いいぞっ。
ヨミは差しだされたコインを、しげしげと見つめた。
「銅七五パーセント、ニッケル二五パーセント。こちらは銅が九五パーセントで残りは微量の亜鉛と錫です。――これがなにか?」
百円玉と五十円玉、そして十円玉を分析し終わって、ヨミが言う。
だめだあああぁ。
「行きましょう」
男の子はまだ納得しない顔だったが、ヨミがあまりにも自信満々に店を出て行こうとするので、なんとなく引っぱられていってしまう。
もう一刻の猶予もならなかった。
仕方がなかった。ヨミの「はじめてのおつかい」を成功させるため、こうして若夫婦にまで身を落として見守っていたわけであるが――。
拓真は決意した。
「拓真。行かなきゃ」
理央も同じことを考えていたか、二人、顔を見合わせてうなずきあ。
すたすた――と早足で歩きだした。ヨミたちを追い抜いて、その前に出ていこうとする。
止めねばならない。
二人が店を出てしまう前に――。“万引き”をやってしまう前に――。
父親として。そして母親として。
と、その時――。
後ろのほうで、突然、大声があがった。
「あんたそれは万引きだよ!」
一人の客が、別の客の腕を掴んで叫んでいた。
手を掴まれているのは中年の女性。手を掴んでいるのは初老の男性。
おばさんはバッグの中に品物をこっそりしまおうとしていところだった。それを見咎めた男性が、過ちを犯させないために叱りつけているのだ。
「あんたいけないよ! お金払わないで持っていったら万引きだよ。万引きは犯罪だよ」
「か、買いますよ! お金払いますよ! 払えばいいんでしょう! 離しなさいよ!」
おばさんは手をふりほどくと、レジに向かって大股で歩いていった。
短い間に人だかりができあがっていた。拍手こそあがらないものの、誰の目にも賞賛の目があった。男性が万引きを未然に防いだことを、まわりの客のほとんどはきちんと理解しているようだった。
そしてたぶん――。
たったいま理解したのが、そこにぽかんと立っている二人。
そしてそれどころじゃないのが、こっちの――。自分たち二人。
「ほーら見てごらんお前っ。この野菜じつにラブリーじゃないかぁ」
「すごいわアナタっ。このジャガイモあなたそっくり。ぜひ居間に飾りたいわっ」
すぐ近くまで来ているヨミと男の子にバレないように、拓真と理央必死に若夫婦を演じていた。
「万引きは犯罪」
ヨミが中空を見つめてつぶやいた。
きゅいーんとメカっぽい音がして、その表情が一瞬、固まる。
「……書き込み完了しました」
「だからいったよ、おネエちゃん。おかねわたさないと、だめなんだってー」
「それは犯罪です。いけないことです」
「おネエちゃんってバカだろ」
「肯定します。私は色々学ばなくてはなりません。しかしこの私の性能をもってすれば、あらゆることは学習可能で――」
二人はレジへと向かっていった。
そして拓真と理央も――。
周囲の人たちから奇異の目を向けられて、人として大事なものをそこはかとなく失いつつ、最も大事な一つだけは、なんとか守りきっていた。
はっ、と気づいて。
ぎゅっと繋ぎあっていた手を、拓真は慌てて放した。手のひらに汗がじっとりと滲んでいた。
理央もどこか気恥ずかしそうにしていて――。
家までは、一メートルの距離を開けて歩いた。
*
私は――。
任務を完了させて、家に帰投するために道を歩いていた。
偶然にも彼の家は近くだった。途中までの道は一緒であり、よって私は、彼と並んで歩いていた。
手をしっかりと繋いでいる。
彼に対して、私は生物で言うところの「感情」に属するものを持つようになっていた。
同じ目的に向けて協調行動を取った存在に対して覚えるその感情を、どこに分類すべきなのか、私は道すがら、考える。
「友情」とも異なる。大きな分類としては「好意」に含まれるが、そのサブジャンル的な位置にある何らかの情動。
「信頼感」にはわりと近い。マザーやファザーに感じる「敬愛」よりは等身大。
よくわからない。「わからない」という解答を私の論理回路が許容するということ自体、わからない。
彼と別れる分岐路が迫ってくる。
ぎゅっと握った私の手を、彼がふりほどいてきた。
私は自分の一部を持っていかれたように感じた。そして混乱して――たっぷり五〇〇〇ミリセカンドほど、つまり五秒ほど、自分の顔がどういう表情を形作っているのか、自分でモニターすることが不能となった。
「そんなカオするなよ、おネエちゃん!」
彼は言った。
「約束なっ!」
と、彼は手の小指を突き出してくる。
「またあおうぜ! あそぼうぜ!」
彼が小指を絡ませあおうとしているのだと理解して、私は同じようにして応じた。
「オレたち“せんゆー”だからなっ!」
彼は走っていった。彼の姿が視覚で追えなくなるまで見ていて――。私は手元に視線を落とした。
小指を見つめる。あの行為になんの意味があったのか、よくわからない。
私はもっと学ぶ必要があるようだった。
*
「おかえりー」
家に帰ると、美奈が明るい声で迎えてくれた。
「ありがとー。助かった」
彼女の手が買い物袋を受け取ってゆく。
「すいません。美奈。ぎうにうは――」
「ん。あるね」
彼女は袋の中を見て大きくうなずいた。よかったらしい。
牛乳=ぎうにう。
書き書き。きゅいーん。完了。
「はい。おつかれさま。――あれ? いまなんか言ってた? 牛乳が?」
彼女がそう質問してくる。
「いえ。なんの問題もありません」
私はそう答えた。
玄関のほうで物音がしたので、顔を向ける。
廊下をやってきた人物が部屋に入ってくるまで、誰だかわからなかった。
「ただいまー……」
ファザーだった。そしてマザーもいた。視覚だけで定かではないが、二人の顔には疲労の色があるように見えた。
「おかえりー」
美奈は二人にも同じように笑いかける。
「たいへんだった?」
「いいや。ぜんぜん。この俺のスペックをもってすれば大変でもなんでもない」
ファザーはそう言った。
二人の態度が通常と異なることに私は気づいた。しかし何故なのかまでは推定不能。
ファザーの発言の意味も私にはわからない。
ジョークである可能性が八〇パーセント――そしてこの私の性能をもってしてもジョークの解析は容易ではない。
部屋に置いてあったヘッドパーツを正副ともに頭部に装着する。
髪を母から受け継いだツインテールへと結い直しながら、センサー性能が戻ってゆく感触に浸りきる。
生物的にいうと、私はほうっと息を吐いた。つまり安堵した。
インターネットとの接続が回復して、まず最初に行ったのは「せんゆー」の意味の検索。別れ際、彼が最後に言った言葉の検索。
占有。専有。船遊。仙遊。そして「戦友」。
論理的にいって最後の一つに違いない。
彼に対して覚えた感情を、その意味を、いまや私は正しく理解していた。
〜FIN〜
2010年07月27日
明るい家族砲計画っ! 短編 「はじめてのおつかい」
posted by 新木伸 at 09:54| Comment(8)
| 短編小説
明るい家族砲計画っ! 短編 「1UPの日」
明るい家族砲計画っ! 特別短編その1
ファミ通文庫のWEBマガジン、FBonlineに掲載された短編です。
5巻のなかに、この話の話題がでてきます。気になった方はどうぞ。
初出:「FBonline2009、11号」
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「1UPの日」
新城家の夜のリビングで、ごそごそと動く人影があった。
「たしかこのへんにラーメンが……」
灯りもつけず、拓真は台所で夜食をあさっていた。上の戸棚と下の戸棚を開けて閉め、電子レンジの上と下とを見てまわる。
「くそ。なんもねえ」
妙に腹が減って目が覚めてしまった。たいした空腹でもなかったのだが、いざ気になりはじめると眠れない。
カップ麺どころか、インスタントラーメンもレトルト食も、本当になんにも見つからない。
まだ夏休みも梅雨もはじまる前――拓真とおにいさんしかいない男所帯だった頃には、インスタント食は標準装備。各社各種取りそろえて常備されていたものだが。隣家の幼なじみである美奈がやってきて、台所ほか家事全般を仕切るようになってからは、その手の食品は一掃されてしまったようだ。
美奈は賢い主婦であるらしく、冷蔵庫の中にも余分なものは入っていない。毎日買い物をして、買った分はその日のうちにきっちり使い切る。
それがまた拓真の空腹を煽る。
「標準配給装置もねーじゃんかよ」
炊飯ジャー型の装置を探すが、本物のほうの炊飯ジャーしか見あたらない。《標準配給装置》というのは、ヒカリが未来から持ちこんできた便利アイテムだった。欲しい物を言って蓋を開けると、なんでも出てくるという便利アイテムだ。ただしすべて“標準品”であるために味のほうはまったく期待できない。カラオケ屋の料理とそっくりな味がする。
もうこの際、標準ラーメンとか標準おにぎりでもいいのだが――。
ヒカリは二十年後の未来における美奈と自分との子供であった。単なる幼なじみであった二人が、おたがいを異性として意識しはじめて、いまこうして恋人関係にあるのも、すべてヒカリが送りこまれてきたからだ。他にも、別の二十年後【別の二十年後:傍点】から来たヨミという生体アンドロイド娘と、その母親となるべき小学六年生女子の理央という少女も、現在新城家に居候しているわけであるが、そのへんを詳しくやると長編小説一冊分になってしまうだろう。いや二冊分くらいか。うん。一巻と二巻だな。
押し入れで寝ているヒカリを起こして装置を出してもらおうか。いいやかわいそうだよな。――と、台所で行きつ戻りつしていた拓真の目は、ふと、テーブルの上に置かれた物体に止まった。
キノコだ。
竹ざるの上に一本だけ、いかにも高価そうに横たえられている。
これはもしや、噂に聞いたあの伝説の……。
「マツタケ?」
思わず、右を見て左を見る。深夜の台所。ほかに人目があるはずもない。
おそらくどこかからの貰いものだろうが――。新城家は家族六人と一冊。皆で分けたら薄っぺらいスライス一枚になってしまう。
それよりなにより、自分はいまお腹が空いている。食べ物というのはお腹が空いている人間にこそ配られるべきではなかろうか。昔の偉い人もたしかそう言っていた。ほらあれ。パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない、とか言った人。そうなのだ。ラーメンが無ければキノコを食べればいいじゃない?
拓真は焼き網を取りだした。豪勢に一本丸ごと姿焼きだ。
暗い台所でガスの炎が青々と輝く。たいへん美しかった。
*
「拓ー、そろそろ起きないと、学校遅れちゃうよー」
美奈の声とともに、ドアがノックされている。
拓真はまどろみのなかにいた。半分は起きていて、半分はまだ眠っている。
「あー……、うーん……」
返事する声もどこか遠くから聞こえるようだ。自分の声のはずが他人が喋っているように聞こえる。
「二度寝禁止だよー。ちゃんと起きてよー。拓ー」
美奈の声が遠ざかる。拓真の意識はだんだんとはっきりしてきた。
ほっぺたに誰かの足があたっている。それは手のひらでまさぐるとすべすべで、なおかつぷにぷにと柔らかく、つまりは女の子の脚だった。具体的には太腿だ。
だがそんなことでは拓真は驚かない。
押し入れで寝ているヒカリが、こうして布団の中に潜りこんでくることは、よくあることで――。
「あー。よく寝た」
と自分の声がした。
布団の中で誰かがむくりと起きあがった。自分でもヒカリでもないもう一人の誰かだ。
おそるおそる見た。そいつの後ろ姿をじっと見つめる。
やっぱり自分だ。愕然となった。
「おいヒカリ。おまえも起きろ。まーたおまえ俺の布団に潜りこんできやがって。ほんとしょうがねえなぁ」
俺でない自分がそう言っている。いまさっき拓真が思ったことと同じことを言っている。
「うーん……、あと五分……、パパたちと寝てるぅ……、川、川がいいでぇす……」
ヒカリがむにゃむにゃと返事する。
「パパたち?」
あいつ【あいつ:傍点】がようやく気がついた。こちらを見る。目と目があう。
「な……! なんじゃこりゃー!」
それはこっちの台詞だ――と、こちらの拓真はそう思った。向こうの拓真は叫び、布団の上で後じさり、意味の取れない叫びを上げている。掛け布団が引っぱられ、裸ワイシャツ一枚のヒカリと、すっぱだかの拓真の体を露わにする。
「おいヒカリ。おい。起きろよおい」
拓真はヒカリを揺さぶった。ヒカリならきっと、この異常な事態の説明ができるに違いない。
向こうのあいつは、まだパニックのままで叫び声をあげているだけだった。
*
「パパ――1UP【1UP:ワンナップ】キノコ、食べたでしょー!」
いつもより一人分多い朝の食卓で、拓真たち【拓真たち:傍点】はヒカリに叱られていた。
昨夜台所にあったキノコは、マツタケではなく、ヒカリが取り寄せた未来アイテムだったらしい。本物なんて見たことないから区別などつかない。
『《1UP【1UP:ワンナップ】キノコ》――分身用アイテムですね。同種のシリーズ製品として、《分裂キノコ》《無敵キノコ》《巨大化キノコ》などのラインナップがあります。提供は、今日も素晴らしい遊びを演出する捻転堂です』
なんにつかうんだよそれは。
『なんに使えると思いますか』
そりゃ増えたり増えたり増えたり。増えるとなんかいいことがあったり。
『はい。そうですね。たとえば昼食のとき、カレーを食べるかラーメンを食べるかで迷ったときに、この1UPキノコで、ほうら解決です』
拓真が会話ならぬ対話をしている相手は、説明書だった。一冊の小冊子だ。これも未来のアイテムの一つで、対話的説明書【対話的説明書:インタラクティブ・マニュアル】という。毒舌仕様という余計な機能がついているが、なかなかに役立ち、そして信頼も寄せている。この新城家ではセッちゃんという愛称で呼ばれている。
『いやセッちゃんでもヨッちゃんでもセツ夫でもべつにいいですが。この1UPキノコ、ユーザー様のように二人の女の子の間でふらふらしている場合にも、大変よろしいんじゃないでしょうか』
ほら毒舌がはじまった。
「えとあの。拓真。おかわりは?」
小冊子に手に対話をしていると、美奈が声をかけてきた。学校の制服のうえにエプロンを巻いて、なんか反則なくらい、目にまぶしく似合っている。
「いいよ」
「くれ。――おまえに訊いてんじゃねーよ」
あいつが茶碗を差しだした。美奈がそれを受け取る。その茶碗は拓真がいつも使っているものだった。箸だってそう。
そしていま拓真が使っているのは、客用の茶碗と箸だ。茶碗にはご飯がほとんど手つかずで残っている。たしかに自分に訊いたのではなさそうだ。
食が進まないことは、ある不安が影響していた。
どちらの自分が“本物”なのかということだ。目を覚ましたときに、拓真は裸でいた。そしてあいつのほうはパジャマを着ていた。裸でいたほうの自分――。あいつではない“俺”のほうは――。食が進まず、こうして精神不安定なときにいつも手にする説明書【説明書:セッちゃん】を手放せない。
『いや説明書冥利に尽きますね。ユーザー様の精神状態はともかくとして』
「ねーほら。クジできたよ。ほら美奈、好きなとこに棒を足して」
チラシの裏にマジックで縦線に横線――あみだくじを作り終えた理央が、マジックを持って美奈へと迫る。なんのつもりか、理央は朝ご飯そっちのけで、「クジ」などを作っていた。
ツインテールがトレードマークの、この小学六年生の少女は――口を開かなければ、誰もが年齢相応、外見相応のイメージを勝手に抱いてだまされてしまうことだろう。だが彼女の正体は、一切の権威を認めないリベラリスト。バイタリティと野性味に溢れ、せちがらい世の中を一人で生き抜く力を持っている。
そして彼女は拓真の“妻”を公言してはばからない。拓真と恋人関係にある美奈とは、戦争中なのか休戦中なのか、それとも同盟中なのかライバル関係なのか、それは当人たちにしかわからない。
ひとつ言えることは、新城家では、いま二人の未来妻と三角関係が、絶賛進行中であるということだ。いや未来娘まで入れると四角関係か? それとも五角?
「これって……、なんのクジ?」
美奈がマジックを手に持って、棒を一本引きたす前に訊いている。
「もち。どっちの拓真を取るのかっていう、そのクジ」
ぶはっ。と、二箇所で味噌汁が噴き上がった。
あいつ【あいつ:傍点】と俺【俺:傍点】は同時に味噌汁を噴出させていた。
「とるなー!」「きめるなー!」
叫んだ言葉は、微妙に違っていた。
「なんで。問題解決じゃん?」
「へー。こんな一時間もしない短期間でも、言動に食い違いって生じるものなんだ」
「おにいさん! うなずいてないで! なんか言えよ! 言ってくれよ! SF者のくせにこんなときに傍観者決めてんじゃねーよ!」
たまらず叫んだのはあいつ【あいつ:傍点】ではないこちらの拓真。溺れる者はSF者をも掴む。
「いやだって。単なる分身でしょ? クローンとかコピーとか転送事故だとか。百年も前からあるアイデアだし。もうさんざん語り尽くされてるし。これってSFじゃなくて、もうすでにミステリとギャグ漫画の縄張りだよ?」
おにいさんに訊くのがやはり間違いだった。この腐れSF者は、物事をすべてSF度でもって判断するのだった。
「こんなのたいしたSFじゃないし。SF震度で計ったらせいぜい0.5だね。有感以下だね」
つまらなさそうにつぶやいて、おにいさんは食事に戻っていった。まだぶつぶつと、SF震度のことを口にしている。安静にしていれば感じるがSF度1で、歩いていても感じるがSF度3で、立っていられないあたりからSF度5となるらしい。そしてSF度6からは津波注意。
「クジやらないんだったら、あたし、どっち取るか決めちゃっていーい?」
「だめっ!」
美奈が叫んでくれた。
「じゃあ美奈が先に選ぶ? あたしそれでもかまわないけど」
「かまいます!」
美奈がまた叫ぶ。拓真は心の中で応援した。心の中だけで応援した。理央怖い。
「げ。どっちも両方取るつもりだよこの女」
「そ、そんなことは……」
「じゃあ決めてよ。あんたの選ばなかったほう取るって、あたしはそう言ってんの」
雰囲気が険悪になる。
「ママ! 川! 川! パパが二人いると素敵です!」
ヒカリは美奈になにかアピールしている。その真意はたぶん常人には理解できない。
川というのはアレだ。人が三人寝転ぶと“川”という漢字になるというアレだ。拓真が二人でまんなかにヒカリがいて、それが素敵だと主張しているわけだ。
ちなみにヒカリは事態の深刻さをまるで理解していない。同一人物が二人いると困るという大前提がすっぽり抜けているのだろう。
あのアイテムを取り寄せたのはヒカリだった。なんに使うつもりだったのかは、食べてしまったいまとなっては、永遠の謎だ。
『しかしどうしたらマツタケと間違えられるんですか。普通見ればわかるでしょう。色も形も匂いだって違うでしょう。私は説明書ですから匂いってどんなものか知りませんが。きちんと1UPっぽい匂いがしてたでしょう。ていうか間違えるにしたってなぜマツタケなんですか。ええたしかにマツタケは皆の憧れの的でありますし、前世でなりたいキノコのベストワンではありますが』
説明書【説明書:セッちゃん】のいつもの毒舌小言を聞きながら、拓真は一粒一粒、客用茶碗のご飯粒を口に運んだ。
*
昼間のリビングに、ぽつねんと座っていた。
そろそろ正午を迎える部屋の中は、ひどく見慣れない光景に思えた。
灯りがついていないせいだ。自分のほかに誰もいないせいだ。時計の針が動く音が、こちこちと聞こえてくるせいだ。
朝食が終わったあと、拓真は着替えて学校に出かけようとした。予備の制服に袖を通したところで、あいつ【あいつ:傍点】に言われた。――二人で学校に行ったら大騒ぎになるだろと。
もっともな意見だった。ヒカリのせいで色々な騒ぎが起きて、だいぶ慣れてきた感のあるクラスの面々ではあったが、拓真が二人、というのは、震度でいえば「5」くらいに相当する。「立って歩くのが困難」というレベルだ。
説明するのも大変だし。机も教科書も二つ必要になってくるし。あいつと机を並べて二の腕をくっつけ合って、ひとつの教科書を見るなんてまっぴらごめんだし。
マジックを握りしめてずっと待っていたのだが、結局、あいつ【あいつ:傍点】の口から「クジ引き」という提案がされることはなかった。説明書【説明書:セッちゃん】でさえ、当然といった顔で、拓真から奪い去っていってしまった。
拓真は天井の片隅を見上げた。
二階のおにいさんの部屋のある方向だ。いま家の中にいるのは、拓真の他におにいさん一人だけ。
おにいさんの職業はライトノベル作家だ。書いているのはもちろんバリ硬のSFだ。本人は恋愛小説家と言い張っているが、異論など認めない。SF以外が書けるはずもない。おにいさんは引きこもり同然でいつも家に籠もっていて、いつも締め切りに終われ、いつも忙しく原稿に向かっている。あれが小説家というイキモノの一般的な生態であるのかどうか、拓真にはよくわからない。鉄腕編集華蓮さんの話を聞くかぎり、あそこまで酷くはないものの、だいたい似たり寄ったりという感触はあるのだが。
ばかな。
拓真は馬鹿げた考えを追い払った。
いくら人恋しいとはいえ、おにいさんの仕事中の部屋に入れてもらおうとか。マシンガンのようなタイピングの騒音でも、静寂よりは落ち着くだろうか、とか。椅子に座って仕事するおにいさんの足元で膝を抱えていれば、ここで膝を抱えているよりすこしはマシだろうか、とか。
そんなことを可能性としてでも、わずかでも考えてしまっている自分の馬鹿馬鹿しさに腹が立つ。
人として、できることとできないことがある。
だいたいどの口で言う。どんなふうに言う。高校生にもなった男が。「おにーさん、一人でいるとなんか不安だから、部屋に入ってもいいかな?」とか訊くのか。
ふう。
拓真は息を吐き出した。腰をもちあげる。そう。昼ご飯でも作ってやろう。仕事中のおにいさんに昼飯を差し入れにいってやり、そして言うのだ。「べつに寂しくて来たわけじゃないんだからな。昼ご飯抜くのはよくないと思っただけだから。勘違いするなよな」と。
よし完璧。
キッチンに立った拓真は、ふとナプキンで包まれたタッパーを見つけた。弁当箱のように見えるがそんなはずはない。拓真の弁当箱はあいつ【あいつ:傍点】が持っていったはずだ。
メモが挟まれていた。「拓へ。食べてください」と美奈の字で書いてある。
涙がこみあげた。
美奈は忘れずにいてくれた。こちらの自分のことも、しっかり気にしてくれていた。
「ほらヨミ。言ったでしょ。拓真きっと泣いているって。――当たったでしょ?」
理央の声が背中から聞こえて、拓真は慌てて目を擦った。
「な……、なんだ。理央。学校どうしたんだよ」
学校から帰ってきたばかりの格好で、理央がそこに立っている。隣にはいつも一緒のヨミの姿もある。ぺこりと、ヨミが頭を垂れる。
「拓真が気になったから早引けしてきたんだよ」
理央は当然のようにそう言った。
小学生の少女を預かっている保護者的立場の人間としては、ズル休みに対して小言の一つも口にしなければならないところだろうが、しかし拓真はほっとしていた。これでおにいさんの脛に寄りかからずに済む。
理央の目が開きかけの弁当箱を認める。
「お茶いる? 温かいのと冷たいほう、どっち?」
理央の手によって拓真はちゃぶ台のほうに押しやられた。弁当箱を手にしたまま、おとなしく座布団に座る。
もちろん暖かいほうに決まっている。
「あの、緑茶か番茶で――」
顔を向けた瞬間、ほとんど半裸の姿が目に飛びこんできて、拓真はくるりと回れ右して座布団の上に正座した。
理央は小学校の制服を脱いでいた。臙脂色のハイウエストのスカートを、くるりと頭から脱ぎ捨てて、タイツも脱いで生足になり、子供らしくないぱんつ一枚きりの姿態で、まっすぐに立つ。そしてヨミから渡される私服を身につけてゆく。
なぜ背中を向けているのにそんなことがわかってしまうのかというと、もちろん、部屋の端の戸棚のガラスに映して、こっそり覗き見ているからだった。
「見てていいよ。夫なんだし」
「はい。いいです。このまんまでいいです」
拓真は恐縮した。
この小学生六年女子は、ことあるごとに「夫」と「妻」を強調して、拓真をイケナイ気分にドギマギとさせてくる。
「はいお茶」
人のいれてくれたお茶を口にすると、心が暖かくなった。味のほうはぜんぜんわからない。さっきのローティーン女子のセミヌードの刺激が強すぎて心臓がまだもとにもどっていない。
ちゃぶ台の向こう側で頬杖をついた理央に見守られながら、美奈の作った弁当を食べてゆく。途中で一度、いるか、と訊いたが、薄い微笑みが返ってくるだけだった。
「クジ引きしてなかったけどさ」
弁当箱が空になる頃合いに、理央が突然、言ってきた。
「どっち取るのか。これで自動的に決まったよね」
理央は目を細めてそう言った。その目に拓真は、ぞくりと寒気を走らせた。
「な、なんでだよ……」
「だって美奈はあっちと学校行ってるし。いま拓真の目の前にいるのはあたしなんだし」
頬杖をついたままで、理央は言う。
その言葉の意味が、拓真の心にだんだんと染みこんでくる。
そうだ。美奈はあいつ【あいつ:傍点】と学校に行った。そして理央は学校を早引けしてまで自分のところにやって来てくれた。
どれだけ認めたくなかろうと、それが冷たい答えであった。
「ねえ。あたし。“拓”って呼んでもいい?」
「い、いや……、それは……」
“拓”という呼びかたは、美奈専用なのだった。理央もそれはわかってくれていた。その呼びかたで呼んできたことは一度もない。
「でも、もういないんだよ? 拓真を“拓”って呼ぶ人は。だったらいいじゃん。あたしがそう呼んでもいいよね。それを使ってもいいよね」
「で、でも……」
「あたしのモノになっちゃいなよ。――拓【拓:傍点】」
拓真は黙りこんだ。
ずっと考えこんで、お茶が冷えきってしまうくらいの時間が経ってから、訊いた。
「俺。どっちなんだ」
「説明書読まなかったの? どうやって増えるかって、そこのところ」
拓真は首を横に振って答えた。
読んでいない。読めるはずがない。
「あのキノコ食べると、お臍のところから、キノコみたいに生えてくるんだってさ。にょきにょき、ぽんって、そうやって誕生」
起きたとき、拓真は素っ裸だった。いわゆる生まれたての姿というやつであり――。
そしてあいつ【あいつ:傍点】はパジャマを着ていた。あいつ【あいつ:傍点】はまるで自分が本物であるかのように振る舞っていた。
それがすべてだった。冷たい答えだ。
拓真は溜めていた息を吐き出した。理央はすべてわかっていて、それでもなお、自分を――。こんなニセモノの自分を――。
「いい」
拓真は口にした。
理央は拓真の頭を撫でていた。その手が髪をかきわけてくる。
「んで本物の見分けかたは――え? いいってなにが?」
「だからいいって。言ったんだ」
「いいのね?」
理央の目が光った。
本物はいま美奈と一緒にいる。自分にあるのは、偽物でもいいと言ってくれる理央だけだ。
自分にはもう理央しかいない。いないのだ。そう自分に言い聞かせつづけていると、理央は――。
「じっとしてていいよ。キスしてあげる」
小さな唇が触れてくる。その感触を遠くに感じながら、拓真が思い浮かべるのは美奈だった。
その笑顔だ。
*
夕食の食卓。
「拓真。そんな端っこで食べてないでいいのに。こっちこよ?」
美奈が気を利かせて、そう言ってきてくれた。しかし拓真は首を横に振って返した。
新城家の夕飯では、よく鍋が執り行われる。
しかし今夜の食卓は、ちょっとばかり許容量オーバーだ。一家六人と一冊、そして客【客:傍点】が一人。合計七人。鍋が一つでは遠すぎる。
長テーブルの端にちんまりと座った拓真からは、箸がまったく届かない。美奈はそれを気にしてくれているわけだ。
しかしニセモノとしては――ご飯と漬け物だけでも申しわけない気分だ。
「はい。取ってあげたよ。――拓」
肉と野菜が満載された取り皿を理央が運んできてくれる。つい昨日までの自分だったら、二人に増える前の自分であれば、美奈のまえで理央にべったりされることを嫌ったはずだ。しかしいまは違った。美奈にはあいつ【あいつ:傍点】がいる。本物の新城拓真が――。
「あとなんか欲しいのある? 肉もっとぶんどってくる? ――拓」
拓真は力なく首を振った。
美奈が手を止めてこちらを見ている。理央がさっきから“拓”――と、美奈専用の呼びかたを使っていることに気がついたのだ。
しかし美奈はなにも言わず、皆のご飯のおかわりに応じたり、鍋を取り分けてやったり、あくを取ったり、コンロの火加減を調節したり、ヒカリのほっぺたのご飯粒をつまんで食べてやったりしていた。
そして自分に対しても、二度ほどおかわりを訊いてきてくれた。
*
六人が入った一番最後に、風呂をいただく。
居候としての緊張をゆっくり解いてゆきながら、拓真は大きく息を吐き出した。
全身を伸ばして寝そべることのできる無駄に広い浴槽に、ぷかぷかと浮かんだ。
『一人になれる空間でくつろがれるのもイケナイことをされるのも自由ですけど。ところであの。けっして水に浸けないでくださいね。ぜったいぜったいぜったいですよ』
湯にぷかぷかと浮かんだ説明書【説明書:セッちゃん】が、そう言ってくる。
だからビニール袋に入れてあるじゃん。輪ゴムできちんと縛ってあるじゃん。
『しかしけっこう落ち着いていられますね。意外でした。もっと取り乱すものかと。これはユーザー様の評価を改めなければならないかもです』
理央のおかげかな。
と、拓真は独りごちた。心の中での独り言も、この対話的説明書にはすべて聞こえているわけだが。
自分を必要としてくれる人がいることで、ニセモノはニセモノでなくなった。理央にとっては本物なのだということが、支えとなった。
『あれ? じゃあひょっとして童貞じゃなくなりました?』
「なっ――」
拓真は浴槽のなかでずっこけた。風呂の中で溺死しかけた。
「な! なんでそうなる!」
『いやだって、こういうときには、そういうものなんじゃないんですか?』
「そういうものかどういうものか知らんけど、いいからオヤジ的発想をヤメロ。輪ゴムをほどかれたくなかったら、いますぐやめろ」
脅しが利いて、下ネタがぴたりと停止した。
快適な入浴がしばらく続いたあとで――。
『しかしそろそろ24時間ですね。なんだか名残惜しい気もしますけど』
なにが?
ゆったりとした気分になっていた拓真は、何気なくそう訊いた。
『なにがって、もちろんタイムリミットですけど』
タイムリミットって?
『え? あれ? もうちょっとしっかり握ってもらえます? ビニール越しだと思考がうまく読み取れなくて。ユーザー様がなにを知っていて、なにをご存じでないのか、ざっとマインドスキャンかけちゃいますから』
ビニール袋に包まれてぷかぷか浮かぶ説明書【説明書:セッちゃん】を、言われた通りにしっかり掴む。
『ああ。なるほど。了解しました。やっぱり色々と聞いておられなかったわけですね。1UP【1UP:ワンナップ】キノコの有効期限ですよ。いつまでも二人になっていたら不便ですよね。ですので有効期限が存在します。一本丸ごと食べると24時間、半分なら12時間、4分の1であれば6時間。それで有効期限が切れます。ユーザー様の場合には一本丸ごと独り占めして召し上がったわけですから、24時間ということになります』
き……、
期限が、き、切れると……、どうなるんだ?
『もちろん一人になります。ですから名残惜しいですね、と、そう申しあげたわけですが』
………。
拓真は理解した。
ニセモノの自分は、消えるのだ。
そうか。消えるんだ。
そうだよな。ニセモノだもんな。
ぶくぶくと泡を立てながら、拓真は浴槽に沈んでいった。
*
美奈の部屋の前まで来て、ノックするかどうかで迷っていた。
隣の実家に私室を持っている美奈だが、最近はこちらの新城家でも空き部屋を一つ使うようになっていた。屋根の上をパジャマ姿で何度も行き来していて、お転婆ですねえ、と近所の人から言われたことがきっかけだ。
布団もあって、美奈は最近こっちで寝ることが多い。今夜もそのつもりのようで、向こうの家に帰る気配はない。
いまはもうロスタイムへと突入していた。
昨日の夜、キノコを口にしたのが、23時32分だという。そしていまは23時35分。すでに3分過ぎている。1UP【1UP:ワンナップ】キノコは本来生で食べるものだそうで、焼いて食べたせいで化学変化が起きて、効用時間に誤差が出ているらしい。それがロスタイムというわけだ。
5分なのか10分なのか、それとも1時間くらいはあるのか。
確実にわかっていることは、数時間以上のロスタイムは理論的に有り得ないということだけだ。明日の朝にはもう消えていることになる。――確実に。
こうしてノックをためらっている間にも消えてしまうのかもしれない。
しかし拓真は迷いつづけていた。
理央のものになると決めたのに。未練を捨てられない。美奈の部屋を訪ねてどうしたいのか。自分はどうするつもりなのか。どうしたいのか。もういなくなるから。最後だから。思いを遂げたい? バカな。
ただ顔を見るだけでよかった。声を聞ければもっといい。それだけだ。そのはずだ。
携帯の時計で時間を確かめる。23時38分。迷っているあいだに、また3分が過ぎ去ってしまった。
消えてしまえば迷うことさえできない。カッコ悪いことさえできやしない。
拓真はドアをノックした。
「はーい?」
美奈の声がした。そしてドアが内側から開かれる。
「あっ――?」
美奈は驚いたような顔をしていた。二人いるほうのどちらが訪ねてきたのかわからなくて困惑しているのかも。
「あのさ。美奈さ。俺さ」
拓真は美奈に近づいた。
美奈は戸口を塞ぐようにして立っていた。部屋の中にちらりと目を走らせる。ヒカリでもいるのか。なにかを気にしている。
「美奈。俺――」
拓真は構わず、美奈に詰め寄った。
時間がないのだ。こうしている間にも自分は消えてしまうかもしれない。
美奈の手を取って、強く握る。
「あ。あのね。拓真――」
美奈は困った顔をしている。拓真は美奈の手を引いて、さらに迫ろうとした。
「美奈――だれだ? 俺か?」
部屋の中から声がした。
拓真はぎくりと身を固めた。部屋の中にいるのがあいつ【あいつ:傍点】だと、どうして思わなかったのか。
「じゃあ俺。帰るわ」
男がぬっと現れる。まったく同じ身長のはずなのに、なぜだか大きく見える。美奈と握りあっていた手を断ち切るように、あいつ【あいつ:傍点】はわざわざ間を通って出ていった。
その背中が廊下を歩いてゆき、二つ先の自分の部屋へと消えてゆく。中から「パパー!」とヒカリの懐く声が聞こえてくる。
拓真は美奈に目を戻した。
「あ」
思わず声が出た。間抜けなことに美奈の格好にいまさら気づく。
美奈の着ているのはフリーサイズのTシャツが一枚きり。裸ワイシャツのヒカリよりは穏やかなものの、Tシャツの裾が明らかに届いていない。隠しきれない下着のデルタゾーンがちらりと覗き、さらには素足の太腿が続いて――。
「あっ――」
拓真の視線の意味に気づいて、美奈が声をあげる。Tシャツの裾を引っぱり伸ばす。
「ちがうの。これはちがうのそんなんじゃなくて」
美奈は部屋の奥に引っこんで、ドアをぱたりと閉じきった。ごそごそと、ドア越しに服を着る音がしてくる。
拓真は廊下に座りこんだ。ドアに背中をもたれかける。
美奈はなにを「ちがうの」と言っていたのだろう。さっきまでこの部屋にはあいつ【あいつ:傍点】がいたわけだが、それと関係あることだろうか。
「もう――、いいよ?」
ドアの向こう側から美奈の声が聞こえてくる。だが拓真はドアの前から動かなかった。こうしていればドアは開けない。
「どうかしたの? 拓真?」
ドア越しの声を聞きながら、拓真は考えていた。自分が二人になったことで、美奈を悩ませている。困らせてもいる。
美奈は二人の拓真をどちらも対等に扱おうとしていた。それで無理が生じてしまっている。
理央が正しい。
片方を自分の所有物とはじめに決めてかかっていた。あいつ【あいつ:傍点】のほうとは話もしていない。
美奈もそうすれば良かったのだ、“本物”のほうだけに絞って、違うほうとは、こちらの自分とは、話もしないようにすれば――。
「どうしたの? まだそこにいるんだよね? ――なんか言ってよう」
「ああ」
美奈が不安そうな声に、返事を返す。
「あのさ。……その、ありがとな」
「なあに? いきなり? へんな拓真」
美奈は笑う。どうやらタイムリミットのことは聞かされていないようだ。
「いや。これまでのことだとか」
十五年間。ありがとう。
異性として意識して四ヶ月かそこら。恋人関係になってからは、まだたったの三ヶ月かそこら。幼なじみとしてなら十五年間。その思い出をたっぷりと持っていける。
自分が消え、新城拓真がただ一人の人間に戻ることで、美奈が悩んだり苦しんだりしなくなるなら、それでよい。
こんなニセモノを選んでくれた理央には悪いと、そう思うが――。
「拓真。まだいますかー?」
「ああ。まだ【まだ:傍点】いるよ」
拓真は答えた。なにかの遊びとでも思ったか、美奈の声にはくすくすと笑う響きがある。愛おしい。狂おしいほどに愛おしい。
あと何分いられるのだろう。
最期の時間をこうして笑顔でいられるのは、すべて美奈のおかげだ。
「あれー! パパ? パパ? つぎパパの番だよー?」
二つ先の部屋のほうから、そんな声がする。ヒカリが最近ハマっているのはトランプのババ抜きで、これが哀れをもよおすほどに弱いのであるが、懲りずに毎晩挑んできては、なぜ勝てないのか気づかぬまま、それでも本人的には大いに楽しんでいる。
二つ先のドアが開いて、ヒカリの頭がぴょこりと覗く。
「あっ――、パパいたー」
廊下を素足で歩いて来たヒカリは、拓真の前でぺたんと正座すると、手にしたトランプの札をずいっと突きつけてきた。
「はいっ。パパの番です!」
札を突き出すヒカリは目を固く閉じている。いわゆるひとつの必勝法だ。すこしは学習したらしい。
「いや。あの」
トランプをしていたのは俺じゃない、と言おうとして、拓真はふと予感を覚えて立ちあがった。
二つ先の部屋に向けて歩いてゆく。
「拓真。まだいるー?」
美奈がかくれんぼのように愉快そうな声で言ってくる。その声に返事も返せない。いまは確かめなければならない。
部屋の中には――。
誰もいなかった。
絨毯の上にトランプの捨て札の山があって、その前に、服が落ちていた。
ジーンズにシャツ。服は畳まれたのとも脱ぎ捨てたのとも違う形をして落ちていた。膨らみの内側には人の形がまだ残っている。シャツの内側には下着のTシャツが見えていて――。まるでセミの抜け殻だ。脱皮したかのように器用な形で残されていた。
あいつはいなかった。消えてしまっていた。
後ろに伸ばした手を、拓真はぱたぱたと振りたくった。
「パパどうしたの?」
とてとてと歩いてきたヒカリが、拓真のその手を、きゅっと握ってくる。
「ちがう! セッちゃんだ! セツ夫だ! あいつを貸せちょっと貸せ! いいからすぐに出せ!」
『はい。なんざんしょ』
てめえこのやろう騙しやがったな!
『いいえ。以前ご説明いたしましたように、私ら説明書族は、嘘はつけないんですってば。嘘をついたり禁則事項に触れたりしたら機能停止ですんで』
嘘だったろ! 俺が消えるっていうのあれ嘘だったじゃんか! だって消えたの俺でなくてあいつのほうで――!
『私がご説明しましたのは、時間が来るとキノコの効力が切れて一人になるということだけでしたが。どちらが本体で、どちらがキノコの効力で1UPした子実体で、時間がきたときに消えるほうであるかという件につきましては、訊かれなかったのでユーザー様にはご説明しておりません』
あれ? でもだって。俺。生まれたとき――起きたときに、裸で。
『1UPしたらどちらも裸ですよ。服までは増えませんよ魔法じゃないんですから。寝ぼけたまま先に服着るのがどっちかなんて、コインを投げて裏が出るのと大差ない確率でしょう』
けどっ。だけど理央がたしかにそう言って――。
『ああ。はい。では訊かれましたのでご説明します。理央様にはご説明させていただきました。本物の見分け方も伝授させていただきました。ユーザー様は話を最後まで聞かれないのがお得意であるようで、理央様からも聞いていらっしゃらなかったようですね。1UPしてきた子実体のほうに古傷はついていません。なにしろ新品ですから。ところでユーザー様は、小学三年のとき、美奈様と大喧嘩して七針縫うケガを頭にされたとのことですが、たとえばそれを確かめてみたりすればわかることですよね。――なぜ確認されなかったのですか?』
おまえが説明しなかったからだろう。
『ああ。それは失敬』
拓真は頭に手をやった。おそるおそる髪の毛に指を差しいれ、傷を探る。
そこには確かに傷があった。口喧嘩で美奈を一発はたいたら、十七発お返しされて、泣いて逃げようとして、角に頭をぶつけてできた傷だ。
九歳にして救急車というものに乗ってしまった。病院までついてきた美奈は治療が終わるまではまったく泣かず、拓真が出ていったら、泣きじゃくってまったく止まらなくなった。
「は。ははっ――」
力が抜けて、絨毯の上にへなへなと崩れる。
「はははっ。ははははは」
乾いた笑いが出ていった。止まらなかった。
「ひとつ訊いていいか」
笑いも収まって、拓真はそう言った。
『ええなんでもご質問ください。即座に回答いたします。それが説明書の仕事です』
なんで黙ってた。
『そんなの面白いからに決まってるじゃないですか。おかげでユーザー様のかわいいところが見られましたし』
ばしばしと、絨毯のうえにメンコのように三回叩きつけてから、手にとって、もういちど開いてみる。
『気はお済みですか?』
「拓ー、ねえまだー? もういーかーい?」
美奈の声が聞こえてくる。いつのまにか隠れんぼになっているようだ。
「パパー、まだですかー? 左じゃなくて右のほうがいいとぼく思いまーす!」
ヒカリの声も聞こえる。やっぱりぜんぜん学習していなかった。
『ほらヒカリが待ってますよ。二対一でやればババ抜きに勝てると思って時空通販で取り寄せたキノコを食べてしまったいやしん坊のパパの義務として、ちゃんと付き合っておあげなさい』
言われなくても――。
さっきの続きをするために、拓真は腰をあげた。
それにしても――。今夜はなにかと忙しい。自分をニセモノと思いこんでいるあいつ【あいつ:傍点】のことで美奈に相談しにいって、そしてすぐあとにはドア越しに美奈と話しながら、同時に自分の部屋ではヒカリとババ抜きをやっていて――。
あれ?
拓真は立ち止まって、首を傾げた。
記憶が混じっている……? あいつ【あいつ:傍点】と俺の記憶が、両方、二セット存在している? ていうか、あいつ【あいつ:傍点】ってどっち? 俺ってどっちだったっけ?
まあいいか、とすぐに思い直した。
あいつ【あいつ:傍点】も俺も、どちらかが消えたわけではない。騒ぐべきことはなにも起きていない。どっちがどっちかなんて、もうどうでもいい。
ヒカリの手から左の札を抜き取ってすれ違い、美奈とのかくれんぼのために隠れられる場所を探しに、階下へと降りてゆく。
「もういーかーい?」
美奈の声が聞こえる。ああ忙しい。
体が二つほしいくらいだ。
〜FIN〜
ファミ通文庫のWEBマガジン、FBonlineに掲載された短編です。
5巻のなかに、この話の話題がでてきます。気になった方はどうぞ。
初出:「FBonline2009、11号」
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「1UPの日」
新城家の夜のリビングで、ごそごそと動く人影があった。
「たしかこのへんにラーメンが……」
灯りもつけず、拓真は台所で夜食をあさっていた。上の戸棚と下の戸棚を開けて閉め、電子レンジの上と下とを見てまわる。
「くそ。なんもねえ」
妙に腹が減って目が覚めてしまった。たいした空腹でもなかったのだが、いざ気になりはじめると眠れない。
カップ麺どころか、インスタントラーメンもレトルト食も、本当になんにも見つからない。
まだ夏休みも梅雨もはじまる前――拓真とおにいさんしかいない男所帯だった頃には、インスタント食は標準装備。各社各種取りそろえて常備されていたものだが。隣家の幼なじみである美奈がやってきて、台所ほか家事全般を仕切るようになってからは、その手の食品は一掃されてしまったようだ。
美奈は賢い主婦であるらしく、冷蔵庫の中にも余分なものは入っていない。毎日買い物をして、買った分はその日のうちにきっちり使い切る。
それがまた拓真の空腹を煽る。
「標準配給装置もねーじゃんかよ」
炊飯ジャー型の装置を探すが、本物のほうの炊飯ジャーしか見あたらない。《標準配給装置》というのは、ヒカリが未来から持ちこんできた便利アイテムだった。欲しい物を言って蓋を開けると、なんでも出てくるという便利アイテムだ。ただしすべて“標準品”であるために味のほうはまったく期待できない。カラオケ屋の料理とそっくりな味がする。
もうこの際、標準ラーメンとか標準おにぎりでもいいのだが――。
ヒカリは二十年後の未来における美奈と自分との子供であった。単なる幼なじみであった二人が、おたがいを異性として意識しはじめて、いまこうして恋人関係にあるのも、すべてヒカリが送りこまれてきたからだ。他にも、別の二十年後【別の二十年後:傍点】から来たヨミという生体アンドロイド娘と、その母親となるべき小学六年生女子の理央という少女も、現在新城家に居候しているわけであるが、そのへんを詳しくやると長編小説一冊分になってしまうだろう。いや二冊分くらいか。うん。一巻と二巻だな。
押し入れで寝ているヒカリを起こして装置を出してもらおうか。いいやかわいそうだよな。――と、台所で行きつ戻りつしていた拓真の目は、ふと、テーブルの上に置かれた物体に止まった。
キノコだ。
竹ざるの上に一本だけ、いかにも高価そうに横たえられている。
これはもしや、噂に聞いたあの伝説の……。
「マツタケ?」
思わず、右を見て左を見る。深夜の台所。ほかに人目があるはずもない。
おそらくどこかからの貰いものだろうが――。新城家は家族六人と一冊。皆で分けたら薄っぺらいスライス一枚になってしまう。
それよりなにより、自分はいまお腹が空いている。食べ物というのはお腹が空いている人間にこそ配られるべきではなかろうか。昔の偉い人もたしかそう言っていた。ほらあれ。パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない、とか言った人。そうなのだ。ラーメンが無ければキノコを食べればいいじゃない?
拓真は焼き網を取りだした。豪勢に一本丸ごと姿焼きだ。
暗い台所でガスの炎が青々と輝く。たいへん美しかった。
*
「拓ー、そろそろ起きないと、学校遅れちゃうよー」
美奈の声とともに、ドアがノックされている。
拓真はまどろみのなかにいた。半分は起きていて、半分はまだ眠っている。
「あー……、うーん……」
返事する声もどこか遠くから聞こえるようだ。自分の声のはずが他人が喋っているように聞こえる。
「二度寝禁止だよー。ちゃんと起きてよー。拓ー」
美奈の声が遠ざかる。拓真の意識はだんだんとはっきりしてきた。
ほっぺたに誰かの足があたっている。それは手のひらでまさぐるとすべすべで、なおかつぷにぷにと柔らかく、つまりは女の子の脚だった。具体的には太腿だ。
だがそんなことでは拓真は驚かない。
押し入れで寝ているヒカリが、こうして布団の中に潜りこんでくることは、よくあることで――。
「あー。よく寝た」
と自分の声がした。
布団の中で誰かがむくりと起きあがった。自分でもヒカリでもないもう一人の誰かだ。
おそるおそる見た。そいつの後ろ姿をじっと見つめる。
やっぱり自分だ。愕然となった。
「おいヒカリ。おまえも起きろ。まーたおまえ俺の布団に潜りこんできやがって。ほんとしょうがねえなぁ」
俺でない自分がそう言っている。いまさっき拓真が思ったことと同じことを言っている。
「うーん……、あと五分……、パパたちと寝てるぅ……、川、川がいいでぇす……」
ヒカリがむにゃむにゃと返事する。
「パパたち?」
あいつ【あいつ:傍点】がようやく気がついた。こちらを見る。目と目があう。
「な……! なんじゃこりゃー!」
それはこっちの台詞だ――と、こちらの拓真はそう思った。向こうの拓真は叫び、布団の上で後じさり、意味の取れない叫びを上げている。掛け布団が引っぱられ、裸ワイシャツ一枚のヒカリと、すっぱだかの拓真の体を露わにする。
「おいヒカリ。おい。起きろよおい」
拓真はヒカリを揺さぶった。ヒカリならきっと、この異常な事態の説明ができるに違いない。
向こうのあいつは、まだパニックのままで叫び声をあげているだけだった。
*
「パパ――1UP【1UP:ワンナップ】キノコ、食べたでしょー!」
いつもより一人分多い朝の食卓で、拓真たち【拓真たち:傍点】はヒカリに叱られていた。
昨夜台所にあったキノコは、マツタケではなく、ヒカリが取り寄せた未来アイテムだったらしい。本物なんて見たことないから区別などつかない。
『《1UP【1UP:ワンナップ】キノコ》――分身用アイテムですね。同種のシリーズ製品として、《分裂キノコ》《無敵キノコ》《巨大化キノコ》などのラインナップがあります。提供は、今日も素晴らしい遊びを演出する捻転堂です』
なんにつかうんだよそれは。
『なんに使えると思いますか』
そりゃ増えたり増えたり増えたり。増えるとなんかいいことがあったり。
『はい。そうですね。たとえば昼食のとき、カレーを食べるかラーメンを食べるかで迷ったときに、この1UPキノコで、ほうら解決です』
拓真が会話ならぬ対話をしている相手は、説明書だった。一冊の小冊子だ。これも未来のアイテムの一つで、対話的説明書【対話的説明書:インタラクティブ・マニュアル】という。毒舌仕様という余計な機能がついているが、なかなかに役立ち、そして信頼も寄せている。この新城家ではセッちゃんという愛称で呼ばれている。
『いやセッちゃんでもヨッちゃんでもセツ夫でもべつにいいですが。この1UPキノコ、ユーザー様のように二人の女の子の間でふらふらしている場合にも、大変よろしいんじゃないでしょうか』
ほら毒舌がはじまった。
「えとあの。拓真。おかわりは?」
小冊子に手に対話をしていると、美奈が声をかけてきた。学校の制服のうえにエプロンを巻いて、なんか反則なくらい、目にまぶしく似合っている。
「いいよ」
「くれ。――おまえに訊いてんじゃねーよ」
あいつが茶碗を差しだした。美奈がそれを受け取る。その茶碗は拓真がいつも使っているものだった。箸だってそう。
そしていま拓真が使っているのは、客用の茶碗と箸だ。茶碗にはご飯がほとんど手つかずで残っている。たしかに自分に訊いたのではなさそうだ。
食が進まないことは、ある不安が影響していた。
どちらの自分が“本物”なのかということだ。目を覚ましたときに、拓真は裸でいた。そしてあいつのほうはパジャマを着ていた。裸でいたほうの自分――。あいつではない“俺”のほうは――。食が進まず、こうして精神不安定なときにいつも手にする説明書【説明書:セッちゃん】を手放せない。
『いや説明書冥利に尽きますね。ユーザー様の精神状態はともかくとして』
「ねーほら。クジできたよ。ほら美奈、好きなとこに棒を足して」
チラシの裏にマジックで縦線に横線――あみだくじを作り終えた理央が、マジックを持って美奈へと迫る。なんのつもりか、理央は朝ご飯そっちのけで、「クジ」などを作っていた。
ツインテールがトレードマークの、この小学六年生の少女は――口を開かなければ、誰もが年齢相応、外見相応のイメージを勝手に抱いてだまされてしまうことだろう。だが彼女の正体は、一切の権威を認めないリベラリスト。バイタリティと野性味に溢れ、せちがらい世の中を一人で生き抜く力を持っている。
そして彼女は拓真の“妻”を公言してはばからない。拓真と恋人関係にある美奈とは、戦争中なのか休戦中なのか、それとも同盟中なのかライバル関係なのか、それは当人たちにしかわからない。
ひとつ言えることは、新城家では、いま二人の未来妻と三角関係が、絶賛進行中であるということだ。いや未来娘まで入れると四角関係か? それとも五角?
「これって……、なんのクジ?」
美奈がマジックを手に持って、棒を一本引きたす前に訊いている。
「もち。どっちの拓真を取るのかっていう、そのクジ」
ぶはっ。と、二箇所で味噌汁が噴き上がった。
あいつ【あいつ:傍点】と俺【俺:傍点】は同時に味噌汁を噴出させていた。
「とるなー!」「きめるなー!」
叫んだ言葉は、微妙に違っていた。
「なんで。問題解決じゃん?」
「へー。こんな一時間もしない短期間でも、言動に食い違いって生じるものなんだ」
「おにいさん! うなずいてないで! なんか言えよ! 言ってくれよ! SF者のくせにこんなときに傍観者決めてんじゃねーよ!」
たまらず叫んだのはあいつ【あいつ:傍点】ではないこちらの拓真。溺れる者はSF者をも掴む。
「いやだって。単なる分身でしょ? クローンとかコピーとか転送事故だとか。百年も前からあるアイデアだし。もうさんざん語り尽くされてるし。これってSFじゃなくて、もうすでにミステリとギャグ漫画の縄張りだよ?」
おにいさんに訊くのがやはり間違いだった。この腐れSF者は、物事をすべてSF度でもって判断するのだった。
「こんなのたいしたSFじゃないし。SF震度で計ったらせいぜい0.5だね。有感以下だね」
つまらなさそうにつぶやいて、おにいさんは食事に戻っていった。まだぶつぶつと、SF震度のことを口にしている。安静にしていれば感じるがSF度1で、歩いていても感じるがSF度3で、立っていられないあたりからSF度5となるらしい。そしてSF度6からは津波注意。
「クジやらないんだったら、あたし、どっち取るか決めちゃっていーい?」
「だめっ!」
美奈が叫んでくれた。
「じゃあ美奈が先に選ぶ? あたしそれでもかまわないけど」
「かまいます!」
美奈がまた叫ぶ。拓真は心の中で応援した。心の中だけで応援した。理央怖い。
「げ。どっちも両方取るつもりだよこの女」
「そ、そんなことは……」
「じゃあ決めてよ。あんたの選ばなかったほう取るって、あたしはそう言ってんの」
雰囲気が険悪になる。
「ママ! 川! 川! パパが二人いると素敵です!」
ヒカリは美奈になにかアピールしている。その真意はたぶん常人には理解できない。
川というのはアレだ。人が三人寝転ぶと“川”という漢字になるというアレだ。拓真が二人でまんなかにヒカリがいて、それが素敵だと主張しているわけだ。
ちなみにヒカリは事態の深刻さをまるで理解していない。同一人物が二人いると困るという大前提がすっぽり抜けているのだろう。
あのアイテムを取り寄せたのはヒカリだった。なんに使うつもりだったのかは、食べてしまったいまとなっては、永遠の謎だ。
『しかしどうしたらマツタケと間違えられるんですか。普通見ればわかるでしょう。色も形も匂いだって違うでしょう。私は説明書ですから匂いってどんなものか知りませんが。きちんと1UPっぽい匂いがしてたでしょう。ていうか間違えるにしたってなぜマツタケなんですか。ええたしかにマツタケは皆の憧れの的でありますし、前世でなりたいキノコのベストワンではありますが』
説明書【説明書:セッちゃん】のいつもの毒舌小言を聞きながら、拓真は一粒一粒、客用茶碗のご飯粒を口に運んだ。
*
昼間のリビングに、ぽつねんと座っていた。
そろそろ正午を迎える部屋の中は、ひどく見慣れない光景に思えた。
灯りがついていないせいだ。自分のほかに誰もいないせいだ。時計の針が動く音が、こちこちと聞こえてくるせいだ。
朝食が終わったあと、拓真は着替えて学校に出かけようとした。予備の制服に袖を通したところで、あいつ【あいつ:傍点】に言われた。――二人で学校に行ったら大騒ぎになるだろと。
もっともな意見だった。ヒカリのせいで色々な騒ぎが起きて、だいぶ慣れてきた感のあるクラスの面々ではあったが、拓真が二人、というのは、震度でいえば「5」くらいに相当する。「立って歩くのが困難」というレベルだ。
説明するのも大変だし。机も教科書も二つ必要になってくるし。あいつと机を並べて二の腕をくっつけ合って、ひとつの教科書を見るなんてまっぴらごめんだし。
マジックを握りしめてずっと待っていたのだが、結局、あいつ【あいつ:傍点】の口から「クジ引き」という提案がされることはなかった。説明書【説明書:セッちゃん】でさえ、当然といった顔で、拓真から奪い去っていってしまった。
拓真は天井の片隅を見上げた。
二階のおにいさんの部屋のある方向だ。いま家の中にいるのは、拓真の他におにいさん一人だけ。
おにいさんの職業はライトノベル作家だ。書いているのはもちろんバリ硬のSFだ。本人は恋愛小説家と言い張っているが、異論など認めない。SF以外が書けるはずもない。おにいさんは引きこもり同然でいつも家に籠もっていて、いつも締め切りに終われ、いつも忙しく原稿に向かっている。あれが小説家というイキモノの一般的な生態であるのかどうか、拓真にはよくわからない。鉄腕編集華蓮さんの話を聞くかぎり、あそこまで酷くはないものの、だいたい似たり寄ったりという感触はあるのだが。
ばかな。
拓真は馬鹿げた考えを追い払った。
いくら人恋しいとはいえ、おにいさんの仕事中の部屋に入れてもらおうとか。マシンガンのようなタイピングの騒音でも、静寂よりは落ち着くだろうか、とか。椅子に座って仕事するおにいさんの足元で膝を抱えていれば、ここで膝を抱えているよりすこしはマシだろうか、とか。
そんなことを可能性としてでも、わずかでも考えてしまっている自分の馬鹿馬鹿しさに腹が立つ。
人として、できることとできないことがある。
だいたいどの口で言う。どんなふうに言う。高校生にもなった男が。「おにーさん、一人でいるとなんか不安だから、部屋に入ってもいいかな?」とか訊くのか。
ふう。
拓真は息を吐き出した。腰をもちあげる。そう。昼ご飯でも作ってやろう。仕事中のおにいさんに昼飯を差し入れにいってやり、そして言うのだ。「べつに寂しくて来たわけじゃないんだからな。昼ご飯抜くのはよくないと思っただけだから。勘違いするなよな」と。
よし完璧。
キッチンに立った拓真は、ふとナプキンで包まれたタッパーを見つけた。弁当箱のように見えるがそんなはずはない。拓真の弁当箱はあいつ【あいつ:傍点】が持っていったはずだ。
メモが挟まれていた。「拓へ。食べてください」と美奈の字で書いてある。
涙がこみあげた。
美奈は忘れずにいてくれた。こちらの自分のことも、しっかり気にしてくれていた。
「ほらヨミ。言ったでしょ。拓真きっと泣いているって。――当たったでしょ?」
理央の声が背中から聞こえて、拓真は慌てて目を擦った。
「な……、なんだ。理央。学校どうしたんだよ」
学校から帰ってきたばかりの格好で、理央がそこに立っている。隣にはいつも一緒のヨミの姿もある。ぺこりと、ヨミが頭を垂れる。
「拓真が気になったから早引けしてきたんだよ」
理央は当然のようにそう言った。
小学生の少女を預かっている保護者的立場の人間としては、ズル休みに対して小言の一つも口にしなければならないところだろうが、しかし拓真はほっとしていた。これでおにいさんの脛に寄りかからずに済む。
理央の目が開きかけの弁当箱を認める。
「お茶いる? 温かいのと冷たいほう、どっち?」
理央の手によって拓真はちゃぶ台のほうに押しやられた。弁当箱を手にしたまま、おとなしく座布団に座る。
もちろん暖かいほうに決まっている。
「あの、緑茶か番茶で――」
顔を向けた瞬間、ほとんど半裸の姿が目に飛びこんできて、拓真はくるりと回れ右して座布団の上に正座した。
理央は小学校の制服を脱いでいた。臙脂色のハイウエストのスカートを、くるりと頭から脱ぎ捨てて、タイツも脱いで生足になり、子供らしくないぱんつ一枚きりの姿態で、まっすぐに立つ。そしてヨミから渡される私服を身につけてゆく。
なぜ背中を向けているのにそんなことがわかってしまうのかというと、もちろん、部屋の端の戸棚のガラスに映して、こっそり覗き見ているからだった。
「見てていいよ。夫なんだし」
「はい。いいです。このまんまでいいです」
拓真は恐縮した。
この小学生六年女子は、ことあるごとに「夫」と「妻」を強調して、拓真をイケナイ気分にドギマギとさせてくる。
「はいお茶」
人のいれてくれたお茶を口にすると、心が暖かくなった。味のほうはぜんぜんわからない。さっきのローティーン女子のセミヌードの刺激が強すぎて心臓がまだもとにもどっていない。
ちゃぶ台の向こう側で頬杖をついた理央に見守られながら、美奈の作った弁当を食べてゆく。途中で一度、いるか、と訊いたが、薄い微笑みが返ってくるだけだった。
「クジ引きしてなかったけどさ」
弁当箱が空になる頃合いに、理央が突然、言ってきた。
「どっち取るのか。これで自動的に決まったよね」
理央は目を細めてそう言った。その目に拓真は、ぞくりと寒気を走らせた。
「な、なんでだよ……」
「だって美奈はあっちと学校行ってるし。いま拓真の目の前にいるのはあたしなんだし」
頬杖をついたままで、理央は言う。
その言葉の意味が、拓真の心にだんだんと染みこんでくる。
そうだ。美奈はあいつ【あいつ:傍点】と学校に行った。そして理央は学校を早引けしてまで自分のところにやって来てくれた。
どれだけ認めたくなかろうと、それが冷たい答えであった。
「ねえ。あたし。“拓”って呼んでもいい?」
「い、いや……、それは……」
“拓”という呼びかたは、美奈専用なのだった。理央もそれはわかってくれていた。その呼びかたで呼んできたことは一度もない。
「でも、もういないんだよ? 拓真を“拓”って呼ぶ人は。だったらいいじゃん。あたしがそう呼んでもいいよね。それを使ってもいいよね」
「で、でも……」
「あたしのモノになっちゃいなよ。――拓【拓:傍点】」
拓真は黙りこんだ。
ずっと考えこんで、お茶が冷えきってしまうくらいの時間が経ってから、訊いた。
「俺。どっちなんだ」
「説明書読まなかったの? どうやって増えるかって、そこのところ」
拓真は首を横に振って答えた。
読んでいない。読めるはずがない。
「あのキノコ食べると、お臍のところから、キノコみたいに生えてくるんだってさ。にょきにょき、ぽんって、そうやって誕生」
起きたとき、拓真は素っ裸だった。いわゆる生まれたての姿というやつであり――。
そしてあいつ【あいつ:傍点】はパジャマを着ていた。あいつ【あいつ:傍点】はまるで自分が本物であるかのように振る舞っていた。
それがすべてだった。冷たい答えだ。
拓真は溜めていた息を吐き出した。理央はすべてわかっていて、それでもなお、自分を――。こんなニセモノの自分を――。
「いい」
拓真は口にした。
理央は拓真の頭を撫でていた。その手が髪をかきわけてくる。
「んで本物の見分けかたは――え? いいってなにが?」
「だからいいって。言ったんだ」
「いいのね?」
理央の目が光った。
本物はいま美奈と一緒にいる。自分にあるのは、偽物でもいいと言ってくれる理央だけだ。
自分にはもう理央しかいない。いないのだ。そう自分に言い聞かせつづけていると、理央は――。
「じっとしてていいよ。キスしてあげる」
小さな唇が触れてくる。その感触を遠くに感じながら、拓真が思い浮かべるのは美奈だった。
その笑顔だ。
*
夕食の食卓。
「拓真。そんな端っこで食べてないでいいのに。こっちこよ?」
美奈が気を利かせて、そう言ってきてくれた。しかし拓真は首を横に振って返した。
新城家の夕飯では、よく鍋が執り行われる。
しかし今夜の食卓は、ちょっとばかり許容量オーバーだ。一家六人と一冊、そして客【客:傍点】が一人。合計七人。鍋が一つでは遠すぎる。
長テーブルの端にちんまりと座った拓真からは、箸がまったく届かない。美奈はそれを気にしてくれているわけだ。
しかしニセモノとしては――ご飯と漬け物だけでも申しわけない気分だ。
「はい。取ってあげたよ。――拓」
肉と野菜が満載された取り皿を理央が運んできてくれる。つい昨日までの自分だったら、二人に増える前の自分であれば、美奈のまえで理央にべったりされることを嫌ったはずだ。しかしいまは違った。美奈にはあいつ【あいつ:傍点】がいる。本物の新城拓真が――。
「あとなんか欲しいのある? 肉もっとぶんどってくる? ――拓」
拓真は力なく首を振った。
美奈が手を止めてこちらを見ている。理央がさっきから“拓”――と、美奈専用の呼びかたを使っていることに気がついたのだ。
しかし美奈はなにも言わず、皆のご飯のおかわりに応じたり、鍋を取り分けてやったり、あくを取ったり、コンロの火加減を調節したり、ヒカリのほっぺたのご飯粒をつまんで食べてやったりしていた。
そして自分に対しても、二度ほどおかわりを訊いてきてくれた。
*
六人が入った一番最後に、風呂をいただく。
居候としての緊張をゆっくり解いてゆきながら、拓真は大きく息を吐き出した。
全身を伸ばして寝そべることのできる無駄に広い浴槽に、ぷかぷかと浮かんだ。
『一人になれる空間でくつろがれるのもイケナイことをされるのも自由ですけど。ところであの。けっして水に浸けないでくださいね。ぜったいぜったいぜったいですよ』
湯にぷかぷかと浮かんだ説明書【説明書:セッちゃん】が、そう言ってくる。
だからビニール袋に入れてあるじゃん。輪ゴムできちんと縛ってあるじゃん。
『しかしけっこう落ち着いていられますね。意外でした。もっと取り乱すものかと。これはユーザー様の評価を改めなければならないかもです』
理央のおかげかな。
と、拓真は独りごちた。心の中での独り言も、この対話的説明書にはすべて聞こえているわけだが。
自分を必要としてくれる人がいることで、ニセモノはニセモノでなくなった。理央にとっては本物なのだということが、支えとなった。
『あれ? じゃあひょっとして童貞じゃなくなりました?』
「なっ――」
拓真は浴槽のなかでずっこけた。風呂の中で溺死しかけた。
「な! なんでそうなる!」
『いやだって、こういうときには、そういうものなんじゃないんですか?』
「そういうものかどういうものか知らんけど、いいからオヤジ的発想をヤメロ。輪ゴムをほどかれたくなかったら、いますぐやめろ」
脅しが利いて、下ネタがぴたりと停止した。
快適な入浴がしばらく続いたあとで――。
『しかしそろそろ24時間ですね。なんだか名残惜しい気もしますけど』
なにが?
ゆったりとした気分になっていた拓真は、何気なくそう訊いた。
『なにがって、もちろんタイムリミットですけど』
タイムリミットって?
『え? あれ? もうちょっとしっかり握ってもらえます? ビニール越しだと思考がうまく読み取れなくて。ユーザー様がなにを知っていて、なにをご存じでないのか、ざっとマインドスキャンかけちゃいますから』
ビニール袋に包まれてぷかぷか浮かぶ説明書【説明書:セッちゃん】を、言われた通りにしっかり掴む。
『ああ。なるほど。了解しました。やっぱり色々と聞いておられなかったわけですね。1UP【1UP:ワンナップ】キノコの有効期限ですよ。いつまでも二人になっていたら不便ですよね。ですので有効期限が存在します。一本丸ごと食べると24時間、半分なら12時間、4分の1であれば6時間。それで有効期限が切れます。ユーザー様の場合には一本丸ごと独り占めして召し上がったわけですから、24時間ということになります』
き……、
期限が、き、切れると……、どうなるんだ?
『もちろん一人になります。ですから名残惜しいですね、と、そう申しあげたわけですが』
………。
拓真は理解した。
ニセモノの自分は、消えるのだ。
そうか。消えるんだ。
そうだよな。ニセモノだもんな。
ぶくぶくと泡を立てながら、拓真は浴槽に沈んでいった。
*
美奈の部屋の前まで来て、ノックするかどうかで迷っていた。
隣の実家に私室を持っている美奈だが、最近はこちらの新城家でも空き部屋を一つ使うようになっていた。屋根の上をパジャマ姿で何度も行き来していて、お転婆ですねえ、と近所の人から言われたことがきっかけだ。
布団もあって、美奈は最近こっちで寝ることが多い。今夜もそのつもりのようで、向こうの家に帰る気配はない。
いまはもうロスタイムへと突入していた。
昨日の夜、キノコを口にしたのが、23時32分だという。そしていまは23時35分。すでに3分過ぎている。1UP【1UP:ワンナップ】キノコは本来生で食べるものだそうで、焼いて食べたせいで化学変化が起きて、効用時間に誤差が出ているらしい。それがロスタイムというわけだ。
5分なのか10分なのか、それとも1時間くらいはあるのか。
確実にわかっていることは、数時間以上のロスタイムは理論的に有り得ないということだけだ。明日の朝にはもう消えていることになる。――確実に。
こうしてノックをためらっている間にも消えてしまうのかもしれない。
しかし拓真は迷いつづけていた。
理央のものになると決めたのに。未練を捨てられない。美奈の部屋を訪ねてどうしたいのか。自分はどうするつもりなのか。どうしたいのか。もういなくなるから。最後だから。思いを遂げたい? バカな。
ただ顔を見るだけでよかった。声を聞ければもっといい。それだけだ。そのはずだ。
携帯の時計で時間を確かめる。23時38分。迷っているあいだに、また3分が過ぎ去ってしまった。
消えてしまえば迷うことさえできない。カッコ悪いことさえできやしない。
拓真はドアをノックした。
「はーい?」
美奈の声がした。そしてドアが内側から開かれる。
「あっ――?」
美奈は驚いたような顔をしていた。二人いるほうのどちらが訪ねてきたのかわからなくて困惑しているのかも。
「あのさ。美奈さ。俺さ」
拓真は美奈に近づいた。
美奈は戸口を塞ぐようにして立っていた。部屋の中にちらりと目を走らせる。ヒカリでもいるのか。なにかを気にしている。
「美奈。俺――」
拓真は構わず、美奈に詰め寄った。
時間がないのだ。こうしている間にも自分は消えてしまうかもしれない。
美奈の手を取って、強く握る。
「あ。あのね。拓真――」
美奈は困った顔をしている。拓真は美奈の手を引いて、さらに迫ろうとした。
「美奈――だれだ? 俺か?」
部屋の中から声がした。
拓真はぎくりと身を固めた。部屋の中にいるのがあいつ【あいつ:傍点】だと、どうして思わなかったのか。
「じゃあ俺。帰るわ」
男がぬっと現れる。まったく同じ身長のはずなのに、なぜだか大きく見える。美奈と握りあっていた手を断ち切るように、あいつ【あいつ:傍点】はわざわざ間を通って出ていった。
その背中が廊下を歩いてゆき、二つ先の自分の部屋へと消えてゆく。中から「パパー!」とヒカリの懐く声が聞こえてくる。
拓真は美奈に目を戻した。
「あ」
思わず声が出た。間抜けなことに美奈の格好にいまさら気づく。
美奈の着ているのはフリーサイズのTシャツが一枚きり。裸ワイシャツのヒカリよりは穏やかなものの、Tシャツの裾が明らかに届いていない。隠しきれない下着のデルタゾーンがちらりと覗き、さらには素足の太腿が続いて――。
「あっ――」
拓真の視線の意味に気づいて、美奈が声をあげる。Tシャツの裾を引っぱり伸ばす。
「ちがうの。これはちがうのそんなんじゃなくて」
美奈は部屋の奥に引っこんで、ドアをぱたりと閉じきった。ごそごそと、ドア越しに服を着る音がしてくる。
拓真は廊下に座りこんだ。ドアに背中をもたれかける。
美奈はなにを「ちがうの」と言っていたのだろう。さっきまでこの部屋にはあいつ【あいつ:傍点】がいたわけだが、それと関係あることだろうか。
「もう――、いいよ?」
ドアの向こう側から美奈の声が聞こえてくる。だが拓真はドアの前から動かなかった。こうしていればドアは開けない。
「どうかしたの? 拓真?」
ドア越しの声を聞きながら、拓真は考えていた。自分が二人になったことで、美奈を悩ませている。困らせてもいる。
美奈は二人の拓真をどちらも対等に扱おうとしていた。それで無理が生じてしまっている。
理央が正しい。
片方を自分の所有物とはじめに決めてかかっていた。あいつ【あいつ:傍点】のほうとは話もしていない。
美奈もそうすれば良かったのだ、“本物”のほうだけに絞って、違うほうとは、こちらの自分とは、話もしないようにすれば――。
「どうしたの? まだそこにいるんだよね? ――なんか言ってよう」
「ああ」
美奈が不安そうな声に、返事を返す。
「あのさ。……その、ありがとな」
「なあに? いきなり? へんな拓真」
美奈は笑う。どうやらタイムリミットのことは聞かされていないようだ。
「いや。これまでのことだとか」
十五年間。ありがとう。
異性として意識して四ヶ月かそこら。恋人関係になってからは、まだたったの三ヶ月かそこら。幼なじみとしてなら十五年間。その思い出をたっぷりと持っていける。
自分が消え、新城拓真がただ一人の人間に戻ることで、美奈が悩んだり苦しんだりしなくなるなら、それでよい。
こんなニセモノを選んでくれた理央には悪いと、そう思うが――。
「拓真。まだいますかー?」
「ああ。まだ【まだ:傍点】いるよ」
拓真は答えた。なにかの遊びとでも思ったか、美奈の声にはくすくすと笑う響きがある。愛おしい。狂おしいほどに愛おしい。
あと何分いられるのだろう。
最期の時間をこうして笑顔でいられるのは、すべて美奈のおかげだ。
「あれー! パパ? パパ? つぎパパの番だよー?」
二つ先の部屋のほうから、そんな声がする。ヒカリが最近ハマっているのはトランプのババ抜きで、これが哀れをもよおすほどに弱いのであるが、懲りずに毎晩挑んできては、なぜ勝てないのか気づかぬまま、それでも本人的には大いに楽しんでいる。
二つ先のドアが開いて、ヒカリの頭がぴょこりと覗く。
「あっ――、パパいたー」
廊下を素足で歩いて来たヒカリは、拓真の前でぺたんと正座すると、手にしたトランプの札をずいっと突きつけてきた。
「はいっ。パパの番です!」
札を突き出すヒカリは目を固く閉じている。いわゆるひとつの必勝法だ。すこしは学習したらしい。
「いや。あの」
トランプをしていたのは俺じゃない、と言おうとして、拓真はふと予感を覚えて立ちあがった。
二つ先の部屋に向けて歩いてゆく。
「拓真。まだいるー?」
美奈がかくれんぼのように愉快そうな声で言ってくる。その声に返事も返せない。いまは確かめなければならない。
部屋の中には――。
誰もいなかった。
絨毯の上にトランプの捨て札の山があって、その前に、服が落ちていた。
ジーンズにシャツ。服は畳まれたのとも脱ぎ捨てたのとも違う形をして落ちていた。膨らみの内側には人の形がまだ残っている。シャツの内側には下着のTシャツが見えていて――。まるでセミの抜け殻だ。脱皮したかのように器用な形で残されていた。
あいつはいなかった。消えてしまっていた。
後ろに伸ばした手を、拓真はぱたぱたと振りたくった。
「パパどうしたの?」
とてとてと歩いてきたヒカリが、拓真のその手を、きゅっと握ってくる。
「ちがう! セッちゃんだ! セツ夫だ! あいつを貸せちょっと貸せ! いいからすぐに出せ!」
『はい。なんざんしょ』
てめえこのやろう騙しやがったな!
『いいえ。以前ご説明いたしましたように、私ら説明書族は、嘘はつけないんですってば。嘘をついたり禁則事項に触れたりしたら機能停止ですんで』
嘘だったろ! 俺が消えるっていうのあれ嘘だったじゃんか! だって消えたの俺でなくてあいつのほうで――!
『私がご説明しましたのは、時間が来るとキノコの効力が切れて一人になるということだけでしたが。どちらが本体で、どちらがキノコの効力で1UPした子実体で、時間がきたときに消えるほうであるかという件につきましては、訊かれなかったのでユーザー様にはご説明しておりません』
あれ? でもだって。俺。生まれたとき――起きたときに、裸で。
『1UPしたらどちらも裸ですよ。服までは増えませんよ魔法じゃないんですから。寝ぼけたまま先に服着るのがどっちかなんて、コインを投げて裏が出るのと大差ない確率でしょう』
けどっ。だけど理央がたしかにそう言って――。
『ああ。はい。では訊かれましたのでご説明します。理央様にはご説明させていただきました。本物の見分け方も伝授させていただきました。ユーザー様は話を最後まで聞かれないのがお得意であるようで、理央様からも聞いていらっしゃらなかったようですね。1UPしてきた子実体のほうに古傷はついていません。なにしろ新品ですから。ところでユーザー様は、小学三年のとき、美奈様と大喧嘩して七針縫うケガを頭にされたとのことですが、たとえばそれを確かめてみたりすればわかることですよね。――なぜ確認されなかったのですか?』
おまえが説明しなかったからだろう。
『ああ。それは失敬』
拓真は頭に手をやった。おそるおそる髪の毛に指を差しいれ、傷を探る。
そこには確かに傷があった。口喧嘩で美奈を一発はたいたら、十七発お返しされて、泣いて逃げようとして、角に頭をぶつけてできた傷だ。
九歳にして救急車というものに乗ってしまった。病院までついてきた美奈は治療が終わるまではまったく泣かず、拓真が出ていったら、泣きじゃくってまったく止まらなくなった。
「は。ははっ――」
力が抜けて、絨毯の上にへなへなと崩れる。
「はははっ。ははははは」
乾いた笑いが出ていった。止まらなかった。
「ひとつ訊いていいか」
笑いも収まって、拓真はそう言った。
『ええなんでもご質問ください。即座に回答いたします。それが説明書の仕事です』
なんで黙ってた。
『そんなの面白いからに決まってるじゃないですか。おかげでユーザー様のかわいいところが見られましたし』
ばしばしと、絨毯のうえにメンコのように三回叩きつけてから、手にとって、もういちど開いてみる。
『気はお済みですか?』
「拓ー、ねえまだー? もういーかーい?」
美奈の声が聞こえてくる。いつのまにか隠れんぼになっているようだ。
「パパー、まだですかー? 左じゃなくて右のほうがいいとぼく思いまーす!」
ヒカリの声も聞こえる。やっぱりぜんぜん学習していなかった。
『ほらヒカリが待ってますよ。二対一でやればババ抜きに勝てると思って時空通販で取り寄せたキノコを食べてしまったいやしん坊のパパの義務として、ちゃんと付き合っておあげなさい』
言われなくても――。
さっきの続きをするために、拓真は腰をあげた。
それにしても――。今夜はなにかと忙しい。自分をニセモノと思いこんでいるあいつ【あいつ:傍点】のことで美奈に相談しにいって、そしてすぐあとにはドア越しに美奈と話しながら、同時に自分の部屋ではヒカリとババ抜きをやっていて――。
あれ?
拓真は立ち止まって、首を傾げた。
記憶が混じっている……? あいつ【あいつ:傍点】と俺の記憶が、両方、二セット存在している? ていうか、あいつ【あいつ:傍点】ってどっち? 俺ってどっちだったっけ?
まあいいか、とすぐに思い直した。
あいつ【あいつ:傍点】も俺も、どちらかが消えたわけではない。騒ぐべきことはなにも起きていない。どっちがどっちかなんて、もうどうでもいい。
ヒカリの手から左の札を抜き取ってすれ違い、美奈とのかくれんぼのために隠れられる場所を探しに、階下へと降りてゆく。
「もういーかーい?」
美奈の声が聞こえる。ああ忙しい。
体が二つほしいくらいだ。
〜FIN〜
posted by 新木伸 at 09:53| Comment(18)
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